【対談企画】視覚とおいしさ

商品開発の現場を紐解くことで次第に明らかになる、“視覚とおいしさ”の関係。 では、その視覚が遮断されたとき、人はどう味わい、おいしさを感じるのでしょう。 答えを解き明かすカギをくれるのが、照度ゼロの暗闇を体験できる〈ダイアログ・イン・ザ・ダーク〉。 複数人のグループで暗闇の世界に入り込み、様々な体験をするソーシャルエンターテイメントです。 アサヒビールで缶チューハイの商品開発の指揮をとる山下博司氏が、暗闇の世界を体験。 〈ダイアログ・イン・ザ・ダーク〉の代表を務める志村真介氏との対談を通じ、 “視覚とおいしさ”の関係性に迫ります。

話を聞いた人

  • アサヒビール(株)
    酒類開発研究所 開発第二部
    担当部長

    山下 博司さん

  • ダイアログ・イン・ザ・ダーク
    代表

    志村 真介さん

物影さえ感じることのない真の暗闇でドリンクを味わう

山下 自分の目が開いているのか閉じているのかすらわからない、完全照度ゼロの世界でドリンクを味わう。初めての経験でしたが、ここまで戸惑うとは驚きましたね。瓶のようなボトルの触感、シュワッという音と刺激から炭酸飲料であることは分かりましたが、明確に何の飲料だったのか、あまり自信が持てません。

志村 山下さんがボトルの触感を頼りにされたように、見えない世界では、認識のアプローチ方法が異なります。見える世界では、まずパッケージデザインから記憶をたぐり寄せ、「この飲料だろう」と推測しますが、見えない世界では、視覚以外からアプローチする必要に迫られるわけです。

山下 見えない分、確かに触覚が大きな頼りでした。私が手に取った飲料には王冠が付いていたため、香りを嗅ぐ前には「ビールかもしれない」と身構えましたね。

志村 視覚から情報が得られれば、すぐに実態が把握でき、安心して飲むことができます。これはいわば、視覚への信頼感です。しかし見えない世界では、そうはいきません。

山下 まさに私が体験したことですね。香りを嗅いだ段階で、アルコール飲料でないことは分かりましたが、視覚が遮断された環境では信頼感に乏しく、おそるおそる口を付けた気がします。

志村 五感のうち、視覚がおよぼす影響は8割以上とも言われます。普段、視覚で判断することに慣れきっているため、怖さが生じたのでしょう。しかし人はおもしろい。視覚が遮断されたことで、ほかの感覚が研ぎ澄まされ、フル回転を始めます。すると視覚以外の感覚の閾値(いきち)が変化するんですね。

山下 閾値とは、ある反応を起こす境目となる値のことですね。苦いと感じる境目、酸っぱいと感じる境目。商品開発においても、非常に重要な値です。

志村 暗闇の世界では、その閾値が変化します。視覚情報がなくなるため、水面下に退いていた視覚以外の感覚が敏感になる。つまりは、閾値が下がるわけです。

五感がクロスオーバーする『香りをきく』という感性

山下 商品開発の現場でも、できるだけ視覚による先入観を排除した環境で官能評価を行い、閾値の計測をしています。しかし志村さんのお話を伺うと、まだまだ改善の余地を感じてしまいますね。

志村 とりわけ日本の開発者は、大変だと思います。日本人は香りを嗅ぐことを「香りをきく」と表現し、その香りを伝えるには「甘い、苦い、辛い」というように、味覚表現を用います。この五感がクロスオーバーするような感性は、日本人ならではです。

山下 私たちもアルコール製品を評価する官能評価のことを「きき酒会」と呼んでいますね。香りが味わいに影響するのはもちろん、香りで味を補うこともあります。
例えば、健康志向が高まる昨今ですが、それでも人は甘いものが飲みたい。単に糖を足してはカロリーが高くなってしまうため、ニーズに逆行してしまいます。そこで、甘さを想起させる香りをプラスするのです。

志村 香りで味を錯覚させ、人の欲求を満たしつつも健康的な商品を作るわけですね。

山下 その通りです。そうして決定した味わいに基づき、香りだけでなくその味を想起させるような色を補うことで、より満足感が高まります。
しかし不思議ですね。視覚による色の認識が味を想起させる一方、視覚を遮断することで、嗅覚や味覚が研ぎ澄まされるのですから。目の不自由な方は、やはり嗅覚に秀でた方が多いのでしょうか。

志村 人それぞれです。しかし何が決定打なのか、気になりますよね。以前、一目惚れについて興味があり、目の見えないスタッフに「恋人のどこに惹かれたの?」と尋ねたことがあります。すると「足音」という答えが返ってきました。

山下 足音が一目惚れの決定打になると!それは素敵ですね。
音といえば、「チューハイには必ず氷を入れる」という方がいます。理由は「炭酸の音が好きだから」。氷を入れると炭酸が抜けてしまうので、開発者としてはおすすめしたくないのですが、その方には舌に感じる刺激よりも音が重要ということですね。

志村 確かに心地いい音ですよね。炭酸が弾けるパチパチという音も、缶をあけたときのプシュッという音も。とても爽快です。

未来にも廃れることのないおいしさが生み出す対話の時間

山下 私たちも音がもたらす爽快感を重視していますが、暗闇を体験したことで、より音の重要性が高まりました。複数人で暗闇のなかに入ったはずが、誰の存在も見えない。しかし声が聞こえた瞬間、「一人じゃないんだ」という安堵感に包まれました。初めての経験です。

志村 その安堵感こそ、私たち〈ダイアログ・イン・ザ・ダーク〉が伝えたいことのひとつです。照度ゼロの世界は、単なる設(しつら)えに過ぎません。大切なのはダイアログ、すなわち対話です。感覚が封じられた世界では人に対する閾値も変わり、誰もが対等に向き合えます。この対等な会話は人を幸せにしますが、誰かと食事をしたり、飲み物を飲むというシチュエーションも、対話のための設え。古くから世界中に根付くお茶会は、喉の渇きを癒す目的だけではなく、誰かとおしゃべりするために開かれていたのではないでしょうか。

山下 それは非常に励みになるお言葉ですね。お酒というのは、生きるのに必要な栄養を摂取するという類の食品ではありません。しかしお酒から生まれる会話が対人関係を豊かにし、行動や心を変える。志村さんのおっしゃる通り、語らいのツールですね。

志村 飲み物を囲むと心が安らぎ、自ずと会話が生まれます。人工知能がどんなに発達した未来にも、お茶やお酒の時間は残るはずだと、私は信じています。

山下 そうであることを願いますし、そうした時間を残すことこそ、私たちメーカーの責務ですね。そのためには手に取った瞬間から会話をしたくなる商品をつくらねばなりません。開発の原点に立ち返れたような気持ちです。どうもありがとうございました。

1988年、ドイツの哲学博士アンドレアス・ハイネッケの発案によって生まれたダイアログ・イン・ザ・ダーク。暗闇のエキスパートである視覚障がい者のアテンドにより、様々なシーンを体験するワークショップ。これまで世界41カ国以上で開催され、800万人を超える人々が体験。日本では1999年の初開催以降、20万人以上が体験しています。

ホームページ:http://www.dialoginthedark.com/